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マイアーの娘たち

 マイアーの遺言の1つに「結婚はロートシルト家の親族内で行う」とある。 5人の息子たちは欧州の主要都市に移住してそれぞれがその地の銀行家になっているが、5人の娘たちはどうなったか。 長女のシェーンヒエ・ジャネットは長男アムシェルの2歳年長で、ベネディクト・モーゼス・ウォルムズに嫁いだ。子供にモーゼス・ベネディクト・ド・ウォルムズがいる。彼はセイロン島に大プランテーションを所有していた。 ここでもマイ...

1812年9月19日

 マイアー・アムシェル(奥の院の祖)が死去した。彼が生涯で行った最も大きなことは、1773年の金融カルテルの結成であった。 彼は29歳の時、欧州の裕福で強い影響力を持つ12人の富豪(ユダヤ人金融屋)を招いて会合を持ち、以下のような主張・提案を行った。彼らはそれぞれ各王国の御用商人(ホフユーデン)である。 彼は皆の前で提案した。 ここに集まった全員が、話し合って資金の貸し出しと回収を共同で行うことに...

大王様の妻・グトレ

 大王様の祖マイアーの妻は、ザロモン・シュナッパーの娘グトレである。 シュナッパーはマイアーと同じフランクフルトのユダヤ商人で、本名はザロモン・バルーク・シュナッパーといった。ザクセン=マイニンゲン公の御用商人で宮廷ユダヤ人の一人であった。ザクセン=マイニンゲンはザクセン諸公国の1つである。 娘のグトレがマイアーに嫁ぎ、フランクフルトのロスチャイルド家を継いだマイアーの長男アムシェルら5人兄弟の生...

父マイアー・アムシェルの遺言

 アムシェルたち5人兄弟の父マイアー・アムシェルは1812年9月に死去した。その時、彼は息子たちに以下の遺言を残した。 会社内の重要ポストは一族に限る 事業をするのは男子相続人だけ 一族から過半数の反対がない限り、宗家も分家も長男が家督を継ぐ 結婚はロートシルト家の親族内で行う 事業は秘密厳守にして在庫や財産の目録は公表しない 全て今の社会ではあまりよくないこととされている。非難の対象とされる。「...

アムシェル・マイアー・フォン・ロートシルト

 これから大王家の歴史を辿ってみる。 大王家の祖マイアー・アムシェル・ロートシルト(1744年ー1812年)の長男である。ドイツのフランクフルトのゲットーで誕生した。ゲットーというと閉じ込められたという印象を与えるが、実際はユダヤ人の自治区域という意味である。他からの干渉を受けない。干渉させない。 長男だからか、名前は父とほとんど同じで、マイアーとアムシェルとを入れ替えただけとなっている。 母は、フ...

ノーベル賞

 1896年12月10日、ダイナマイトの発明で巨万の富を築いたスウェーデンの実業家、アルフレッド・ノーベルが死去した。 1900年6月29日、ノーベルの死後3年半経って、スウェーデンでノーベル財団設立令が公布される。そして翌1901年、ノーベルの遺産を基に、ノーベル賞が創設された。 ところがノーベル財団の理事には代々スウェーデンの大財閥ヴァレンベリ家の人が就いている。つまり、ノーベル財団はヴァレン...

22日の続き

目の前にいたのは夫だった。  彼女は企て(陰謀)のことを一切知らなかった。彼女は夫同様、アバンチュールを楽しんでいるだけだと思っていたから、夫との鉢合わせを不運な偶然だと考えた。騒動が持ち上がった。夫にはクラブのホステスの役割が知らされた。しかし彼はそれを一切口外できなかった。政府の高官である彼が渦中の人物となるわけにはいかなかった。 クラブの従業員は、男性も女性もスパイであり、クラブで生じた...

再びのランファミ運動

1789年フランス革命直前、奥の院が採用したランファミ運動を思い出す。 マリー・アントワネットにぞっこんだった枢機卿プリンス・ド・ロアンを、偽手紙でパレ・ロワイヤルに誘い出し、マリー・アントワネットになりすました売春婦の一人と関係させた一件である。(令和元年11月30日奥の院通信) 主人公である彼は、イギリス国王の勅書送達吏をしていた。日本での天皇の勅使と同じである。地位は高く、あらゆることに精通し...

ロマノフ王朝を潰せ

 ウラジーミル・レーニンの実兄のアレクサンドル・ウリアノフが、アレキサンダー三世暗殺を企てて処刑されたので、その弟のレーニンが奥の院に取り立てられて、ロシア革命の指揮官に選ばれた。  奥の院が非ユダヤ人を取り立てて重要ポストに就けたり、重要な使命を任せる場合、それなりのテストをし、合格したら最後にはテロを起こさせる。忠誠心と本気度を試すわけである。レーニンの場合、実兄のウリアノフがテロに参加し...

ロシア皇帝アレキサンダー二世

1855年3月2日、ロシア皇帝ニコライ一世が死去し、息子のアレキサンダー二世が即位した。新たに帝位に就いたアレキサンダー二世は父のニコライ一世よりもユダヤ人に対して優しい政策をとった。 1861年、アレキサンダー二世は2300万人の農奴を解放した。以前1804年にアレキサンダー一世がユダヤ人に公立学校への入学を義務付け、ユダヤ人がロシア社会に受け入れられるようにした。それで義務教育の恩恵に浴し...