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冷酷さと残忍さ

 1789年7月14日、暴徒がパリのバスティーユ監獄を破壊し、凶悪犯罪の囚人も含め、全て世に出した。ユダヤ銀行家たちは監獄から出てきた連中に金を払い暴れさせる。 群衆を煽動し、非ユダヤ人指導者をギロチンで次々に虐殺していく。それから何千人という尼僧と司祭やその家族を、教会から引きずり出し、斧と鉈で滅多切りにし撲殺した。キリストの祭壇の前で、彼らを虐殺した。聖堂は、滅多切りにされた非ユダヤ人聖職者の血で悪...

フランス人はいつもユダヤ人を恐れて来た

 大英帝国を乗っ取った奥の院・ユダヤ人金融屋は、フランス革命と称してフランス人大虐殺を敢行した。 非ユダヤ人指導者を虐殺し、自分たちの王の首すらギロチン台の下の籠に転げ落としたのであるが、それを実行した暴徒たちを買収したのはユダヤ人金融資本家たちの金であった。フランスでやったほど、ユダヤ人が非ユダヤ人指導者たちを上手く虐殺し排除した例はないであろう。その結果フランスは、以後2百年このかた、首をちょ...

独裁制社会

 1775年、ジョージ3世は植民地アメリカの叛乱鎮圧のためにヘッセン人の傭兵を雇ったが、その代金をヘッセン選帝侯に支払った。彼はその金をフランクフルトの友人のユダヤ人両替商マイアー・アムシェル・ロスチャイルド(奥の院の祖)に預けた。植民地の叛乱とはアメリカ植民地側からは、独立戦争であり、アメリカはこの戦争に勝利し、翌1776年独立宣言することになった。ヘッセン選帝侯は大金をジョージ3世から受け取っ...

世界初の中央銀行

 1649年、世界初の中央銀行となったイングランド銀行がロンドンに誕生した。但し、これは中央銀行とはいうが、奥の院(ユダヤ人の金貸したち)の私有銀行で、大英帝国政府とは全く関係なかった。大英帝国政府は、この私有銀行「イングランド銀行」からお金を借りる関係であった。 大英帝国政府は、このイングランド銀行に利息を払い続ける関係にあった。そして、ユダヤは大英帝国での通貨発行権を手にして、国から利息を取り...

スウェーデン王カール10世

 イギリスでチャールズ1世を公開処刑した清教徒革命から6年後の1655年、スウェーデン王カール10世グスタフは、ポーランドの持っていたスウェーデン王位要求権を放棄させるために、ポーランドに軍事侵攻した(ポーランド・スウェーデン戦争)。ここでポーランドはユダヤ人の裏切りに苦しむことになる。 ユダヤ人はカールの陣にやって来て、ポーランドの防衛に関するあらゆる情報を与えたことで、カールはポーランドを易々...

オレンジ公ウィリアム

 1677年11月、メアリー2世が代々オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の総督を世襲するオラニエ=ナッサウ家のオラニエ公ウィレム3世(後のイギリスの王ウィリアム3世)と結婚した。15歳であった。政略結婚である。父は1649年に公開処刑(清教徒革命)されたチャールズ1世の次男のジェームズ2世である。したがって、メアリー2世は処刑されたチャールズ1世の孫娘に当たる。  1685年2月、叔父のチャールズ2...

共同体の創設

 ギリシャ人は共同体を作り上げることが出来なかった。ギリシャ人が人間の自由を求める根本的な本能を、無視することが出来たなら、ギリシャ人も彼らの共同体を作ることが出来たであろう。 しかしギリシャ人は、自由を得て歴史上まれな人類文明を完成させた。それは、中央政府の権力よりも個人の権利を重要視することによって、はじめて可能になるのである。 一方、ユダヤ人は個人の自由を踏みにじることによって、悪の栄える犯...

カウフマンは

 著書『ユダヤ民族の偉大な時代と思想』の中で、「異教徒の宗教の基本は自然現象の神格化である」と書いている。その通りかも知れない。日本人は自然そのものを神と認識している。森羅万象悉く神と認識している。神道の根本思想である。 天皇は神を祀る祭り主であるが、拝む対象はこのユダヤ人の言う「神格化された自然現象」かも知れない。彼らがそう考えるとしたら、日本の神は彼らには何らの害もないはずである。 ところが、...

死海文書

 イスラエルが建国される1年前の1947年に、ヨルダン川西岸でヘブライ語聖書(旧約聖書)が発見された。他にも多くの文書が発見され、その中に多くのユダヤ人への指示書が含まれており、ユダヤ人を大いに慌てさせた。 ユダヤ人の内部規則は秘密にされているからである。そしてまた、その内容は極めて厳しいものである。マフィアの掟と思えば分かりやすいのかも知れない。これが「懲戒の指示書」といわれる。 指示書の内容の一つ...

チャールズ・ビアード

 彼はアメリカ合衆国の著名な歴史学者で且つ政治学者である。イギリスのオックスフォード大学に留学し、帰国後1904年30歳でコロンビア大学の教授となり、歴史と政治学を教えていた。 1922年(大正11年)、当時東京市長の後藤新平の招聘により来日したお雇い外国人の一人であった。彼は一旦帰国するが、翌大正12年に再来日する。後藤は大正9年12月から大正12年4月まで東京市長を務め、辞職した直後の大正12年9月に関東大震災が...