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吉田健三

1849年嘉永2年福井藩士の子として誕生した。

 1864年15歳の時に脱藩して大阪に出て医学を学んだ。1866年長崎に行ってイギリス軍艦でイギリスに密航した。17歳の少年を、この時代にイギリスの軍艦が運んでくれて現地のロンドンでの世話一切をしたというと言うことは、いかにも唐突である。
 奥の院は彼の才能を認めてイギリスに留学させたのか、後に彼を認めて取り込んだのかは分からない。恐らく両方相まってのことであろう。

 2年後1868年19歳で帰国し、ジャーディン・マセソン商会横浜支店に入社して、間もなく20歳そこそこで支店長になる。奥の院の手下になることを、明確にか暗黙にかは別として抜擢されたのであろう。ジャーディン・マセソン商会は1859年で創設された日本で最初の外国銀行である。

 ここで吉田健三は、規模は小さいが日本では大きな打ち出の小槌を手にした。そして彼は退職して退職慰労金をもとに、この打ち出の小槌を使って様々な事業を興し、大王家奥の院の一員となるのである。これら事業の一つに東京日日新聞(毎日新聞の前身)があった。支配の道具としてのメディア(洗脳機関)を手にした。おきまりの筋道である。

 そしてこれを使って彼は土佐の板垣退助らの自由民権運動を支援する。今で言う反日左翼運動(日本の国体破壊工作)である。そして彼は奥の院の指図通りに動いた。自由を声高に叫んで、ハイカラぶったわけである。

 ところで、彼の仲間に土佐宿毛藩士の竹内綱がいた。そして、この竹内綱が1878年明治11年、外に子供(庶子)を作った。吉田は生まれた子供が男だったらくれを言って、幸いに生まれた子が男子で、これを養子にもらう。この子が、後に日本の政界に君臨した吉田茂である。つまり吉田茂は実父が竹内綱、養父が吉田健三である。
 吉田健三は明治22年、40歳で死去し、養子の茂は11歳で莫大な財産を相続した。

 茂は長じて外交官となり、先の大戦終了後は日本の政界に君臨した(奥の院が君臨させた)。そして昭和27年(1952年)、日本が主権を回復した時にしなければならなかったことを(奥の院の命令で)全て放置した。自主憲法制定(占領憲法破棄)、皇族復帰、国軍創設など、現在の最重要懸案事項すべてである。
 この間の推移を見ると、ペリー来航、ジャーディン・マセソン商会横浜支店設置、吉田健三の密航、4回の戦争、吉田茂の誕生と、日本が次第に奥の院の支配下に置かれていく経緯が明確になってくる。そしてこのうち、ジャーディン・マセソン商会横浜支店設置、吉田健三の密航、吉田茂の実像については、奥の院は巧妙に歴史から隠蔽している。
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