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ロシア皇帝アレキサンダー二世

1855年3月2日、ロシア皇帝ニコライ一世が死去し、息子のアレキサンダー二世が即位した。新たに帝位に就いたアレキサンダー二世は父のニコライ一世よりもユダヤ人に対して優しい政策をとった。
 
1861年、アレキサンダー二世は2300万人の農奴を解放した。
以前1804年にアレキサンダー一世がユダヤ人に公立学校への入学を義務付け、ユダヤ人がロシア社会に受け入れられるようにした。それで義務教育の恩恵に浴した多くのユダヤ人が大学に進学したが、大学を卒業しても就職先を探すのが困難で、アレキサンダー二世はユダヤ人卒業生の全てに、ロシア政府の仕事をすることを認めた。従って、ロシア政府の官吏として多くのユダヤ人が官庁に入り込んだ。
 
そして1879年には更に緩和が進み、ユダヤ人の薬剤師、看護師、歯科医、酒造業者、熟練工はロシアの何処に居住していても、何処で仕事をしていても構わないことになった。
イギリスのベンジャミン・ディズレリー首相(ユダヤ人)は後にアレキサンダー二世を、「これまでのロシアの支配者の中で最も慈悲深い」と評している。
こうして、アレキサンダー二世は、ディズレリーの言う通り、ユダヤ人に慈悲深い政策をとったのである。
 
にもかかわらず、ユダヤ人革命指導者たちは、革命のための運動を止めることはなかった。益々過激になり、知識人の不平分子の支持を集めながら、産業労働者に暴力革命を吹き込んだ。そして1867年と1879年の2度、アレクサンダー二世の暗殺を試みた。
1867年はパリ訪問中に襲われた。この時は何とか難を逃れた。
1879年にはアレクサンダー2世を狙った冬宮食堂爆破事件が起きて多数の死傷者が出た。後に1928年、満州でソ連の工作員エイチンゴンとサルヌインが張作霖を爆殺したのも、張作霖の乗っている客室の天井に爆弾を仕掛けて爆殺したが、全く同じ手法である。
 
そして1881年3月13日、アレキサンダー二世は、「人民の意志」党員のポーランド人イグナツィ・フリニェヴィエツキの投じた爆弾により、サンクトペテルブルク市内で暗殺された。この暗殺には、レーニンの実兄・アレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフが関与していた。
 
アレキサンダー二世が暗殺されたことで、ロシア各地でユダヤ住民に対する自然発生的暴力行為が起きることになった。ユダヤ人がアレキサンダー二世の寛容政策に満足して和解しなかったということは、「彼らが満足するのは、ロシアの絶対支配だけである」と論じるロシア人役人たちの意見が支持されることになった。
 
後にレーニンはロシア革命を起こしてニコライ二世一家全員を銃殺にしたが、これは実兄のアレクサンドル・イリイチ・ウリヤノフが処刑されたからであると歴史は教えるが、そうであれば、その原因のアレクサンダー二世(ニコライ二世の祖父)暗殺の事実についても言うべきである。
 
アレキサンダー二世が暗殺され、アレキサンダー三世が即位したが、彼は強欲なユダヤ人を非難する答申を行う。すると革命指導者たちは「社会主義者・革命党」を組織した。そして、極めて冷酷なグリゴリー・ゲルシューニ(ロシア社会革命党創設者)がテロリスト集団の組織化を任じられ、彼は非ユダヤ人を運動に参加させる。参加資格テストに合格した非ユダヤ人を正規メンバーに加えた。アレクサンドル・ウリヤノフがこれに合格したが、正規メンバーとして承認される前に、彼はアレクサンドル三世の暗殺計画に参加するよう命じられた。ウリヤノフはこれに従って参加したが、この企ては失敗し、アレクサンドル・ウリヤノフは逮捕され処刑された。
 そしてアレクサンドル・ウリヤノフの実弟であるウラジーミル(レーニン)は昇進し、ボルシェビキ党の指導者となり、ここにソビエト連邦の独裁者レーニンが誕生した。奥の院は彼に資金を提供してロシア革命を成功させた。かつてのソビエト連邦も奥の院が作ったのである。
 
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