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3男ネイサン・マイアー

 1777年9月、大王家の祖マイアーの3男としてフランクフルトのユダヤ人自治区(ゲットー)で誕生した。兄たちと同じロスチャイルド2世(大王家2世)である。

 1798年、21歳の時、イギリス産業革命の中心地マンチェスターに移住した。たまたまこの年7月、ナポレオン率いるフランス革命軍がエジプトに遠征し、カイロに侵攻した。
 しかし、このエジプト遠征軍は海上ではナイルの海戦で、イギリスのネルソン率いるイギリス艦隊に敗北した。そこで、ナポレオンは自軍をエジプトに置いたまま、単身パリに戻ってきた。当然、敵前逃亡として軍法会議に掛けられ、処刑される可能性もあった。しかし、パリ市民は彼を歓呼の声で迎えた。
 詳細はまた書くことにするが、フランス革命(ユダヤ人によるフランス人大虐殺)で荒廃したフランスを救ってくれる人物は、ナポレオンしかいないとパリ市民は肌感覚で感じていたのであろうか。

 この年(1798年)12月にはイギリス主導で第2次対仏大同盟が結成され、ナポレオン潰しが始まっている。この時ネイサンはまだ21歳であるから、ネイサン主導と言うよりも、父マイアーとの共同作戦だったものと思われる。

 翌年1799年11月、ナポレオンは軍事クーデターを起こして総裁政府(奥の院のフランス革命政府)を倒して統領政府を樹立した。奥の院はフランス革命で総裁政府を樹立したのであるが、これをナポレオンが倒してしまったので、彼らはナポレオン潰しのために、第二次対仏同盟を結成させたのである。なお、第一次対仏同盟は1793年1月、フランスがルイ16世を処刑したことで、欧州諸国は王制に対する危機感から結成されている。

 1804年、27歳でネイサンは金融の街ロンドンに移住する。父マイアーの指示であろうが、イギリスは奥の院の司令塔として、改めてナポレオンと対峙することになる。1806年にはナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスを締め上げようとした。そこでネイサンは、大陸にいる父マイアーや他の兄弟たちと組んで、密貿易を行って巨利を得たことについては既に書いた。

 ネイサンはこの大陸封鎖令を逆手にとって物資の密輸出を行ったが、対仏大同盟の同盟国に軍資金も運んでナポレオンに対抗した。こうしてロンドンのネイサンは、次第に対仏大同盟(対ナポレオン大同盟)を主導する奥の院の中心人物になっていく。
 その後1815年、38歳の時、ナポレオンとの最後の決戦となったワーテルローの戦いで勝利し、ナポレオンを潰した。そしてこのワーテルローの戦いの直後、その勝敗を誰よりも早く知ってロンドン取引所で巨利を収めたが、これについては既に書いた。(令和元年11月16日通信参照)。

 ワーテルローの戦いでナポレオンを潰して、ネイサン親子は名実ともに奥の院の中心勢力となった。世界の大王様になっていく出発点になったとも言える。
 ネイサンが戦いの翌日、取引所において売りと買いで巨利を収めたのとは反対に、イギリス貴族や他の金融屋は大損をして破綻してしまった。破綻を免れるために、彼らはネイサンに大きな借金をして救ってもらったので、彼らはネイサンの軍門に降ってしまったのである。その代表例のひとつがチャーチル家であった。

 1817年にはオーストリアのハプスブルグ家が、他の兄弟4人と一緒に、ネイサンに男爵位を贈ったが、彼はその称号「フォン」を用いることはなかったし、勲章もつけなかったと言われている。
 自分の方が上だという意識があったのであろうか。現にイギリス王室は残ったが、ハプスブルグ家は残っていない。言い方を変えれば、イギリス王室は彼ら(奥の院)にとって利用価値があるが、その他はないので潰してしまったのである。

 さあ、彼らは日本の天皇をどうするのであろうか?日本の皇室はイギリス王室と結構関係が深いので、少々気になるところではある。

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