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大西洋を挟んで

 大王家の祖マイアーが死去したあと、ネイサンら兄弟は、大西洋を挟んで東の欧州大陸にはナポレオン問題、西にはアメリカ大陸の独立問題と合衆国銀行の問題を抱えた。
 1811年3月、アメリカでは第一合衆国銀行の認可延長を上下両院ともが否決し、奥の院はアメリカでの自分たちの銀行(打ち出の小槌)を失った。
 そこで奥の院は1812年、イギリス政府を嗾けてアメリカとの戦争を引き起こした。イギリスにもアメリカにも金を使わせて借金地獄を造出するのである。そうなればいずれ奥の院に金を借りに来る。6月18日、アメリカがイギリスに宣戦布告する。

 この年6月22日にはナポレオンがロシアに侵攻し、冬将軍を迎えたところで撤退し、その撤退戦で大敗北を喫し、また翌1813年にはナポレオンがライプツッヒの戦いで敗北し、ナポレオン戦争は対仏大同盟(奥の院)が勝利を収めつつあった。

 1814年4月、フォンテンブロー条約(パリ郊外のフォンテンブローで調印)が結ばれ、ナポレオンはイタリアのエルバ島に流される。そして9月にはナポレオン戦争の後処理のため、奥の院は各国の首脳をウィーンに集め、ウィーン会議を開催した。
 会議で話される言葉はイディッシュ語だったと言われている。つまり、会議に出てきた各国の代表は皆ユダヤ人(宮廷ユダヤ人)であったと言うことである。

 会議では当然のことながら、各国の利害が対立し、なかなか条約案が纏まらない。そうしているうちに、1815年2月26日、ナポレオンがエルバ島を脱出してパリに戻ってくる。彼はパリ市民から歓呼で迎えられた。
 ここで奥の院(ネイサンら)は欧州のことを纏めるために、アメリカとはガン条約を結んで、英米戦争は取りあえず早々に終結させた。

 ナポレオンがパリに戻ってきて皇帝に返り咲いたので、前年1814年4月に即位していたルイ18世(ルイ16世の弟)は海外逃亡し、ベルギーのヘントで逃亡生活を送った。そしてナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ再度失脚したので、またパリに戻ってきた。ナポレオンの百日天下がここで終わった。

 ウィーン会議が再開され、1815年6月、ウィーン議定書が締結される。ここにウィーン体制が発足する。
 欧州全土でユダヤ人は「平等の権利」が保証された。ウィーン会議はユダヤ人の勝利の祝典と言われる。ユダヤ人がゲットーから飛び出し、異常発生した蝗のように欧州を席巻し、各国政府の公的役職に就き、教育界に地位を得、銀行の役員になり、ユダヤ人が非ユダヤ人に対し、抵抗しがたい支配者となった。

 ヨーロッパ文明の偉大な時代は、この時突如として終わりを告げた。もはやシェークスピアやベートーヴェン、ゲーテのような文化的巨人は、どこにも見当たらなくなった。
 そしてここで、スイスの永世中立国化が承認される。奥の院が戦利品を安全に保管する場所であり、しかもスイスがこれからの世界革命を計画する場所(根城)であり続けることになる。
 後にレーニンはここで大金を渡され、封印列車でロシアに向かうことになる。


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