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ウィーン体制発足後

 1815年、ウィーン議定書が合意され、ウィーン体制が発足した。

 2年後の1817年1月には、ようやくアメリカで奥の院の第2合衆国銀行が発足し、彼らは大西洋を挟んで、欧州とアメリカを支配する体制を構築していく。

 この年3月、パリ・ロスチャイルド家の祖ジェームズ・ロスチャイルドが、パリ・ロスチャイルド商会を設立した。
 そして、1821年5月、セントヘレナに流されていたナポレオンが毒殺される。料理人が食事の中に毎日少量の砒素を混入し、時間を掛けて毒殺した。永年、欧州全体を巻き込んで、奥の院の邪魔者であり続けたナポレオンを、ようやくこの世から抹殺した。

 しかし、翌年1822年8月にはイギリスのカッスレー卿がジョージ4世に謁見し、「陛下、ヨーロッパに別れを告げなければなりません」と打ち明け、その後家に帰って、ペンナイフで頸動脈を切って自決した。ウィーン体制発足で欧州は奥の院が支配する世界になったので、我が国(イギリス)はこことは距離を置く必要があるということを訴えたのであった。(令和元年12月28日通信参照)

 翌年1823年3月、先にジェームズ・ロスチャイルドが設立したパリ・ロスチャイルド商会が、フランス政府の発行する総額1億2千万フランの公債を引き受けるに当たって、シンジケート団を組織する。奥の院がフランス政府に融資している。民間である奥の院銀行がフランス政府に貸し付けるのである。

 そして1826年、アメリカで国民の奥の院に対する抵抗事件「ウイリアム・モーガン暗殺事件」が起きた。国民は犠牲となったモーガンを偲んで称え、彼の記念碑を建てている。碑文には、「我々の市民的諸制度はフリーメーソンによって破滅を見るだろう。彼らはすでに力を蓄え、日毎に巨大になっている。私は国家に対して、その危機を暴く義務がある。W・モーガン大尉」とある。
 また碑の裏面には「ウイリアム・モーガンを偲んでここに奉じる。彼はヴァージニアに生まれ、1812年の戦争(米英戦争)において大尉となった。バタビアの敬愛すべき市民であり、真実を書き、それを公刊し、真実を語り続けた自由の殉教者であった。彼は1826年にフリーメーソンによりこの地の近郊で拉致され、彼らの組織の秘密を暴いたために殺害された」とある。この記念碑は一般の寄付によって建てられた。

 モーガン暗殺をきっかけとして、反フリーメーソン派の国民的運動が高まり、アメリカ北東部一帯のフリーメーソン・ロッジは閉鎖されるに至った。1828年では、反フリーメーソン派のニューヨーク州知事候補は、ほぼ半数の票を獲得した。
 また、1832年の選挙では反フリーメーソン派の大統領候補ウイリアム・ワートが珍しくバーモント州で勝利した(令和元年12月28日通信参照)。
 しかし、この「モーガン暗殺事件」は、先のイギリスでの「カッスレー卿の自決事件」と同じく、歴史で語られることはほとんどない。奥の院に対する抵抗事件は語ることが許されないのである。

 なお、フリーメーソンは、100年前の1732年、エドワード・ローズ(ユダヤ人)がこれに初加入し、新聞報道などでユダヤ人加入の当否を巡る論議が始まった。そしてその後、続々とユダヤ人が加入し、ユダヤ人のロッジまでできるようになり、その上、遂にこの組織をユダヤ人(奥の院)が乗っ取ってしまったのである。
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