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フィリップ・フォン・シーボルト

 1836年、アメリカで第2合衆国銀行が任期満了で消滅し、奥の院は急遽、オーガスト・ベルモント(カール・ロスチャイルドの庶子)をアメリカに派遣した。そして彼が結婚した相手キャロライン・ペリーの父マシュー・ペリー(義父)を日本に派遣して、日本の幕末騒動が始まったが、此のペリーがやって来た時、彼は詳細な日本地図を持っていた。これは以前フィリップ・シーボルトが日本から持ち出したものであった(令和元年12月8日通信参照)。

 シーボルトはドイツの医師であったが、1822年7月、26歳の時、オランダ国王ウィレム1世の口利きで、オランダ領東インドの陸軍病院に職を得て、翌1823年に日本のオランダ商館医として長崎の出島にやって来た。
 ドイツ人であるからオランダ語が怪しかったためか、日本の蘭学者からは疑いの目で見られた。そこで彼はオランダでも田舎の山の方の出身で、方言が抜けないからとか言って疑いから逃れたようである。オランダには山などないが、追求もせず、日本は甘いという体質がこの時もあったようだ。

 1828年、シーボルトが帰国する時(32歳)、台風に遭って船が難破し、積み荷が海に流れ出た。その中に持ち出し禁止の日本地図があったため、出国禁止処分を受け、取り調べを受けた後、国外追放処分となった。この時の地図は伊能忠敬の作成した全日本沿海余地全図であった。
 当然のこと、誰がこれをシーボルトに渡したかが問われて大騒動となった。そして幕府天文方の高橋景保ら十数名が厳しい取り調べを受け、景保は獄死している。

 シーボルトは3年で日本に戻る予定になっていたが、国外追放となって戻れなくなった。しかし、オランダ政府からは各種の勲章を授与され、日本から持ち出した膨大な標本類を買い取って貰って大金を手にしている。その上、蘭領東印度陸軍参謀付となり出世して、日本関係の事務嘱託となった。また、彼はオランダやドイツでは「日本学の祖」として賞賛された。

 その後、彼は日本の開国を促す運動を推進し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草している。更に、ペリーが日本に派遣されるという情報を得て、その遠征艦隊への参加を申し出ている。しかし、その時、彼はシーボルト事件で国外追放処分を受けているので参加は拒否された。こんな人物を連れて行くと、日本側からそれだけで交渉を拒否されるからである。

 時が流れて1858年(62歳)、日蘭修好通商条約が締結され、翌1859年にオランダ貿易会社顧問として再来日した。そして1861年には手当を得て、対外交渉のための幕府顧問として活躍することになった。
 シーボルトはオランダでも日本でも大学者として持てはやされている表の顔と、奥の院の工作員としての裏の顔があることに、日本人は気付いていないようである。

 奥の院はペリーを派遣するずっと前にシーボルトを派遣して、日本攻略について綿密な計画を立てていたことが分かる。

 シーボルトは日本にいた1827年、楠本滝という日本女性との間に私生児・楠本イネを儲けている。日蘭修好通商条約が締結されたことで、シーボルトの再来日が実現し、再会の機会が出来たことは楠本母子にとっては幸いであった。長男アレキサンダーはシーボルト再来日の時に、同行し来日している。話の筋は少し違うが、まるで「オペラ蝶々夫人」の世界である。

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