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再びシーボルト

 シーボルトは1823年オランダの商館医として日本にやって来たが、実際は奥の院に雇われた工作員であった。日本はその頃は文政5年仁孝天皇の御世で、将軍は第11代徳川家斉であった。

 シーボルトは日本に5年滞在し1828年に一時帰国するが、その間、日本では幕府上層部まで自由に交際し活動できたようである。帰国する船がたまたま台風に遭って難破し、積み荷が海に流され、その中に持ち出し禁止の日本地図があって取り調べを受けた。そのために、彼の正体がある程度は幕府の知るところとなった。

 しかし、この時幕府はどの程度シーボルトの正体とその背景を知ったかはよく分からない。現に、その25年後の1853年にやって来たペリーが、没収されたはずの地図を持っていたのである。しかも、その地図はこっそり盗んだものではなく、幕府天文方から贈られている。幕府方に国際感覚がなかったと言えばそれまでであろうが、幕府将軍家とも極めて良い関係を築いていたのである。そうでなければ幕府天文方が地図を渡すなど考えられない。逆にシーボルトが、工作員としては極めて優秀な活躍をしていたことになる。

 しかも3年の一時帰国で日本を出ているので、彼はまた日本に戻ってきて工作員としての活動を続けることになっていた。たまたま台風で帰国船が難破して起きたシーボルト事件で国外追放処分を受けたために、再入国できなかったに過ぎない。この時の台風はシーボルト台風と命名されている。

 コピーもない時代に、没収された地図と同じものを25年後にやって来たペリーが持っていたと言うことは、シーボルト事件の前に、既に詳細な写しが作成され、密かに持ち出されていたということである。こんなに用意周到に日本侵略が準備されていたと言うことまでは、幕府も気付いていなかったと思われる。現在もこの認識は全くない。逆に、シーボルトは偉大な学者として日本でも賞賛されている。

 幕府はシーボルトが日本に来た3年後の1825年には異国船打払令を出している。これはこの頃、外国船が盛んに日本近海をうろつき始めたことが直接の原因であった。しかし幕府はこのシーボルトの正体とその背景までは分からず、ペリーがやって来る1853年までさしたる対策を打てなかったのである。

 その間、1844年にはシーボルトは日本を開国させるべく、オランダ国王ウィレム2世に自分が書いた親書を出させている。しかも彼は奥の院のアメリカ代理人であるベルモントが、日本の鎖国をこじ開けるためにペリー艦隊を派遣すると知ると、その一員に志願している。

 この間、奥の院の2代当主ネイサンが1836年に死去し、パリ・ロスチャイルド家のジェームズが3代当主の立場となっている。
 しかし、シーボルトを日本に潜り込ませた1823年頃は、初代マイアーが1812年に死去しているので、ロンドンのネイサンが奥の院を仕切っていた。ネイサンからオランダのウィレム2世を使ってオランダ東インド会社に働きかけ、日本から持ち出し禁止の地図を手に入れ、それをアメリカにおける代理人ベルモントを通じてきちんとアメリカに届け、ペリーに持たせている。




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