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孝明天皇の攘夷祈願(悲痛な願い)

 1853年6月9日、幕府はペリーから米国大統領の親書・信任状を受領した。

 孝明天皇は歴史始まって以来の国難と理解され、国体護持の祈り(奥の院との戦い)を開始された。この年8月15日、詔「石清水八幡放生会に外患調伏を祈り給ふの宣命」を渙発された。
 続いて9月11日、詔「神嘗祭に外患調伏を祈り給ふの宣命」を渙発された。

1854年11月20日、詔「賀茂臨時祭に外患調伏を祈り給ふの宣命」
1855年2月23日、詔「大神宮に奉幣して災変外患の攘除を祈り給ふの宣命」
1858年1月、幕府が日米修好通商条約調印の勅許を奏請する。天皇はその可否は諸大名の衆議をもってすべきと詔される。
 3月12日、廷臣八八卿列参事件が起きる。
 関白・九条尚忠が朝廷に日米修好通商条約締結の議案(幕府が上程)を提出したところ、岩倉具視や中山忠能ら合計八八名の堂上公卿らが条約案の撤回を求めた。天皇も条約締結反対の立場を明確にされ、20日には参内した幕府の老中・堀田正睦に対して「勅許の不可」なる回答をされる。極めて異例なことであった。
 この時からまた改めて孝明天皇の攘夷祈願の祈りが開始される。
 4月16日、詔「賀茂例祭に外患を祈禳し給へるの宣命」
 6月17日、詔「大神宮に外患の調伏を祈禳をし給ふの宸筆宣命」、この日伊勢大神宮にも「外患の調伏を祈禳をし給ふの宣命」
 6月19日、幕府は遂に勅許を待たず、日米修好通商条約に調印し、さらに蘭・露・英とも同じ条約を締結する。
 6月23日、詔「石清水八幡宮に奉幣して外患を祈禳し給ふの宣命」が発せられる。この日また詔「賀茂社に外患の調伏を祈禳し給ふの宣命」が発せられた。
 7月6日、第13代将軍徳川家定が死去する。
 10月25日、徳川家茂が第14代将軍に就く。
 11月28日、詔「賀茂臨時祭に外患調伏を祈禳し給ふの宣命」。

1862年2月11日、仁孝天皇の皇女で孝明天皇の妹・親子内親王(和宮)と第14代将軍・徳川家茂(17歳)が結婚する。幕府が攘夷貫徹を約しての婚儀が成立した。
 3月1日、詔「大神宮に奉幣して外患を祈禳し給ふの宣命」が発せられる。
 3月8日、詔「石清水八幡に外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 3月24日、詔「石清水臨時祭に外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 3月28日、詔「神武天皇の御陵に外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 3月29日、詔「神功皇后の御陵に外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 4月21日、詔「賀茂祭に外患調伏を祈禳し給ふの宣命」。
 7月27日、「薩英戦争に関して島津忠義に下されし沙汰書」、「(攘夷の)布告の御趣意を奉じて、二念なく攘斥候段、叡感斜ならず候」と島津忠義を嘉して詔を発せられた。
 9月11日、詔「神嘗祭に当たり皇大神宮に外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 11月、詔「神武天皇山陵に陵域修成を奉告し外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 12月、詔「鴨御祖神社御遷宮神奉告し外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 12月23日、「左大臣藤原斉敬を関白に任じ給ふの詔」を発せられ、二条(藤原)斉敬が関白に就く。斉敬は日米修好通商条約締結の勅許不可を唱えた。

1864年1月21日、「徳川家茂を訓諭激励し給ふの勅書」を発せられ、27日には「再び徳川家茂に下して内外の国難に対処すべき方途を訓諭し給ふの勅書」を発せられた。
 続いて
 5月8日、詔「神武天皇山陵に国難平定を祈り給ふの宣命」
 5月21日、詔「宇佐八幡宮に外患調伏を祈り給ふの宣命」。
 9月17日、詔「皇大神宮(伊勢神宮)に奉幣して内憂外患の調伏を祈り給ふの宣命」および詔「石清水八幡宮に奉幣して内憂外患を祈禳をし給ふの宣命」で2社に祈願された。

1865年2月14日、詔「北野臨時祭を復し内憂外患を祈禳をし給ふの宣命」。
 2月18日、「春日祭を旧儀に復し内憂外患を祈禳し給ふの宣命」。
 6月22日、「祇園臨時祭を復興し、内憂外患を祈禳し給ふの宣命」。

1866年4月7日、「松尾寺を復し外患攘除を祈り給ふの宣命」。
 7月20日、将軍・家茂が死去する(21歳)。
 12月5日、徳川慶喜が第15代将軍に就く。
この日、「石清水八幡宮に奉幣して内憂外患を祈禳し給ふの宣命」を発せられ、これが最後の祈願となった。
 12月25日、孝明天皇が在位21年にして36歳で崩御される。
 この1年後、孝明天皇の悲痛な願いを無視して日本は開国した。また、孝明天皇が一貫して守っておられた「公武合体」を破り、倒幕に向かって進む。
 奥の院に誘き出されて、魑魅魍魎の世界に突入していったのである。この延長線上に今の日本国がある。


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