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あるユダヤ人

 彼は名をバーナード・ジャン・ベッテルハイムといった。

 1811年ハンガリーでユダヤ人の子として生まれ,ラビ(ユダヤ教の僧)になるべく教育を受けたが、1836年(25歳)にイタリアのパドヴァで医学を学び、エジプトに行き、その後トルコに渡る。

 1840年(29歳)、トルコの地中海に面した都市スミルナでキリスト教に改宗し、イギリスに渡ってイギリス国教会で洗礼を受けた。そしてイギリス人女性と結婚し、イギリス国籍を取る。
 ここにハンガリー生まれのユダヤ人が、イギリス国教会のイギリス人に生まれ変わる。名前も変えることが多いが彼は名前はそのままだったようである。

 35歳になったこのユダヤ人は35歳になった1846年4月、アヘン戦争(1840年)でイギリス領となった香港を経由し、琉球王国にやって来た。那覇市にある波上宮(沖縄一の宮)の神宮寺である護国寺に潜り込む。
 この時期、日本は3月に孝明天皇が即位されたばかりで、将軍は第11代徳川家慶の時代で、鎖国をしていた。だから本来であれば入国できないのであるが、琉球という地域は入国手続きが甘くて、強引に入り込まれたと言うことである。

 この時は、彼はイギリス国教会のイギリス人である。琉球国としてはキリスト教は禁教であり、鎖国しているので退去要請を行った。しかも、2年前の1844年、フランス人宣教師が武力を背景にして強引に入り込んで布教活動を始めており、その強引さに手を焼いていたので、琉球国側はこの経験から、ベッテルハイムの退去を願った訳である。
 ところがベッテルハイムは逆にこのフランス人宣教師を例にとって、「自分にも同じ権利がある」と言い張り、事実上居住していた。

 それで大人しくしているかと思ったら、流石、根がユダヤ人、本国(イギリス)の軍事力を背景にして、布教活動や通商を認めろと要求した。それから1年あまりが経った1847年10月,国王の尚育王が崩御し、国葬が行われた。彼ら夫妻と先のフランス人宣教師がこれに参列すべく首里城の入り口にやって来たが、そこで琉球人に取り囲まれて殴打された。
 この事件があって、琉球国側は面倒になることを怖れ、彼らを保護する意味もあって、彼らの行動を監視するようになった。

 そうしている内に、7年が経って、1854年ペリー艦隊が琉球国にやって来た。ベッテルハイムは琉球語と琉球文化の知識があるということで(自分を売り込み)ペリーに雇われアメリカに渡る。琉球王国としてはこの厄介者がようやく去ってくれたのであった。

 ベッテルハイムは大富豪ではなく、ごく普通のユダヤ人であるが、このおよそ8年の琉球生活がユダヤ人という人種の性格を教えてくれる。
 彼らはとにかく世界をうろつき廻る。そしてどこに行っても歓迎されることはない。しかし、彼らはそれを全然気にしない。そして、その為の必要資金の出所は常に謎である。しかも、ユダヤ人であることは裏に隠されて、ここではキリスト教徒イギリス人となっている。
 しかし、選民思想だけはしっかり植え付けられているので、どこに行っても誰に会っても,相手を尊敬するとい言う感情は皆無である。そこでの習慣や文化を見下して軽蔑する。認めると言うことは一切ない。

 従って、よその国に入り込んでいっても、「一つ宜しく」とはならず、そこに入り込んで、他人(ここではイギリス)の武力・威力を背景に利用して、「自由に振る舞う権利がある」という。
 従って、入り込んだところの人たちには嫌われ、何かと事を起こす、そして排斥される。そうすると彼らは「迫害された」と言う。「排斥された」が「迫害された」となり、それが歴史として語られ、書き残され、歴史となっていった。

 その上で「反ユダヤ主義」という言葉が造られ、彼らにとって都合が悪くなると「迫害」「反ユダヤ主義」となる。日本人はどんな目に遭っても「反日主義」とは言わない。この点は世界中どの民族も同じである。ユダヤ人を除いて。

 ベッテルハイムはその後アメリカに渡ったり、南北戦争では北軍に従軍している。現在。護国寺には「ベツテルハイム博士居住之趾」が立てられている。日本人(琉球人)とはこういう民族である。
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