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物は造らない

 ローゼンタール青年は続ける。

 『我々(人間様・ユダヤ人)は作り手ではない。作ることは他人(ゴイム・非ユダヤ人)を得させるだけだから。我々は「取得者」であり、「自分」を満足させることにしか興味がない。我々の哲学を理解することは「取る」という語を理解することだろう。
 我々は決して与えず、ただ取るだけだ。我々は決して労働しない。だが他人の苦労の成果は喜んでいただく。我々は作りはしないが、取りはする。我々は生産者ではなく、寄生虫である(寄生虫という自覚がある!)。我々は物理的にどんな社会の中ででも生きて行ける。しかし、心の中はいつも離れている。働くことは生産することであり、その労働の最高の形態が「作る」ことだろう。おまえたちの民族(ゴイム)は自分たちが作り出す物に満足する者(我々・人間様)のためにいつも働いてきた。我々は決して人の利益のためには働かない。我々が取ることができる物なら別だが。
 我々は自分たち最大の繁栄を達成するため、アーリヤ人の考え方を利用してきた。おまえたちは決して金のことを考えず、作ることから得る喜びのために働く。我々はわずかな報酬でおまえたちの労働を搾取し、それを財産に変える』

 実に嫌な民族である。だからこそ、いつの時代も、どこに行っても嫌われる。いくら嫌われても、その原因が自分たちにもあるとは考えない。ちっとも気にしない。相手はゴイム(獣)だからであろう。犬に噛まれたという程度の感覚である。そして逆に相手から迫害を受けたと喚き散らす。

 そういえば、お隣の半島では、つい先頃まで、物作りは奴隷の仕事で、貴族(両班)は決してしなかった。秀吉が朝鮮征伐で出かけていった時、捕虜として連れてきた人たちが帰国するに当たって、両班は全て帰ったが、普通の人たちは皆帰国せず日本に残った。物作りをする人たちは帰ったらまた奴隷に戻るだけだからである。彼等に対する処遇は厳しかった。造れと言われて造った物が粗悪だったりすると処罰が厳しく、逆に立派な物を造っても別に誉められるわけではない。
 日本ではできが悪くても別に処罰されることはないし、良い物が出来上がると、賞賛され、場合によっては殿様から誉められ、以後納入を命じられ、名誉なこととなる。「焼き物」「陶工」などの世界にこれがはっきり残っている。

 そもそも日本には「労働」という言葉・概念はなかった。労働は苦役を連想させ、罪人が罰を受けているのだそうだ。彼等の作った日本国憲法の下では、勤労と言い、日本で最も重要な祭日「新嘗祭」を「勤労感謝の日」と変えた。つまり、新嘗と言う日本の重要な概念を消した。
 しかし「労働感謝の日」としなかったのは奇妙なことである。勤労の「勤」は昔からある言葉であり、「労」は今の概念では使われなかった。前は「いたわる」で,絶妙な言葉を造って、妥協したのか、言葉として興味をそそられる。「奉公人をいたわる」となれば日本古来の概念に合致する。当に、「言葉は世に連れ」である。

 「働く」とい言う言葉も「傍(はた)を楽にする」と言うことだと聞いて納得した。働きに出ることを「奉公に上がる」と言い,別にお役所でなくても出かけていく先は「公」だったのである。それに対する対価も俸給と言った。その後、俸給は「お手当」となり、月々に貰うので給料となった。貰う人は「月給取り」と言い,今では女性もいるけど「サラリーマン」という。普通は労働者とは言わない。

 やはり、働くという基本概念が根強く残っているのか、流石に普通は労働とは言わない。この言葉は特殊な人たちが、特殊な場面で使う。この人たちが日本を「壊そうと企んでいる人たち」(反日・反天皇)であることは実に意義深い現象である。全ては言葉、言霊であることを、改めて思い知らされる。

 ローゼンタール青年も日本のこの機微は理解出来ないであろう。まあ、動物(ゴイム)とみているから、関係ないのかも知れない。
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