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欧州のペスト禍

 昨年秋から世界中が新型コロナウィルス騒ぎで大変であるが、今からおよそ700年前、欧州を腺ペストが襲った。それまでに、人類を襲った最大の惨禍として知られている。死体が即座に黒く変色することから、黒死病としても知られている。

 世界中を往き来するユダヤ人が、この伝染病をヨーロッパに持ち込み、欧州人口の4分の1を抹殺したことが分かっている。しかも、当時は非ユダヤ人たちは、ユダヤ人が悪意を持ってこの病気をばらまいたと信じて疑わなかった。そう信じられたのには訳があるが、それについてはまた機会を改めて書くことにする。それはともかく、この黒死病の件では、ユダヤ人が、非ユダヤ人を危うく全滅させてしまうところであった。

 ところで、事実はこの時のペスト禍は、決してユダヤ人によって入念に意図されたものではなかった。結果的に彼等が欧州全土にペスト菌をばらまいてしまったのであった。この疫病が、どういう経路でヨーロッパへ伝播したのかという問題について、ジャック・ノールというフランス人研究者が追求している。
 「当時、ジェノヴァとベネチアのユダヤ商人の一団が、クリミア半島のカッファ(現ウクライナ南部の港湾都市)という街に居住区を設けていた」とノールは書いている。

 ユダヤ商人は、貿易で手に入れた毛皮・宝石・その他の貴重品類を、ジェノヴァの商船がやってきてヨーロッパへ運んで行くまで、ここに蓄えていた。だから、このカッファの街には、膨大な富の蓄積があることをよく知っていた遊牧民たちが、しばしばこの街を襲った。そこでユダヤ商人たちは、カッファの街の防備を厳重に固めていた。

 1346年のある日のこと、タタール族の軍隊が、この街を陥落させて富を奪おうと計画して襲撃してきた。しかしユダヤ人の要塞と化したこの街は難攻不落で、数週間が過ぎてもタタール族の軍隊はこの要塞化したカッファの街を、攻略できる見込みが立たなかった。

 そうこうしているうちに、衛生施設の整っていない密集したスラム街に住むアジア人たちのあいだに、ペストが発生した。そして、この不治の病気が直ぐに包囲軍の将兵をも襲いはじめた。
 そこで、包囲軍のある司令官が、ユダヤ人を燻り出すために、ある計画を考えついた。カタパルト(大型のパチンコのような兵器)に腺ペストで死んだ兵士の死体をのせて、城壁ごしにカッファの街へ投げ込んだ。

 ペストは要塞内の防衛側にも瞬く間に伝染し、居住区の半分以上のユダヤ人が死んだ。生き残った者たちは船へと避難し、結果的にペスト菌をともなって、母国へ向けて船出することになった。
 最初の寄港地がコンスタンチノープル(現イスタンブール)であった。この当時、人口百万の大都市ではすぐにペストが蔓延し、2ヶ月で3分の1の住民が死亡した。
 ユダヤ人を乗せたいわゆる死の船が、つぎに上陸したのはシチリアだった。ここでも、その積荷が非ユダヤ人のあいだに死をまき散らした。次はサルデーニャとジェノヴァだった。そして最後にこのユダヤ人の死の船はマルセイユの港に着いた。

 このあと、ユダヤ人の生き残りは、多くのヨーロッパの都市に設けられていたユダヤ居住区に向けて出発した。彼らの行く先々で、多くの人たちがペストで死んだ。

 非ユダヤ人たちはすぐに、ペストはユダヤ人がいる地域で最初に発生するということに気が付いた。しかし、ユダヤ人が小アジアのカッファからこの病気を運び込んだとは思いも及ばなかった。

 最初に思いついたことは、ユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたというものだった。なぜなら、ペストに罹ると、当時よく知られていた毒に犯されたのと似た症状が、犠牲者たちに現れたからだ。犠牲者は腹痛を訴え、血を吐いて、発症後2日以内に死んだ。死体は直ぐに黒く変色し、「黒死病」と名付けられたのだった。そして、これが猛毒の存在を人々に信じさせた。
 実際は毒ではなくペスト菌であったが、その病原菌の存在はまだ分かっていなかったからである。

長くなるので続きは明日書くことにする。
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