Entries

アダム・ヴァイスハウプトは

イルミナティの儀礼、儀式を改変し、大東社のフリーメーソンへ参入できるようにした。彼もフランクフルトに住んでいた。
 ミラボー侯爵はオルレアン公とその友人のタレーランをヴァイスハウトに紹介し、ヴァイスハウプトはオルレアン公とタレーランを大東社のフリーメーソンに参入させた。

 ミラボー侯爵はオルレアン公を歓楽の道に誘い込み、借金漬けにした。そしてここでも、ユダヤ人金貸し業者が現れ、事業取引及び経済支援について提案する。
 オルレアン公はその屋敷、土地、及びパレ・ロワイヤル(ルーブル宮殿に隣接した館)を抵当に融資を受けるという契約に同意せざるを得ない状況をつくりだした。結局、彼は借金を返済できるような収入が得られることと引き替えに、自分の財産及び不動産がユダヤ人金貸しによって管理されることを認める取り決めに署名した。

 この金貸したちは、コデルロス・ド・ラクロにオルレアン公のパレ・ロワイヤル及び他の財産を管理させた。ラクロはスペイン系のユダヤ人で、パレ・ロワイヤルの管理者に指名された時には『危険な関係』をはじめポルノまがいの作品を執筆し、人気作家となっていた。

 ラクロはパレ・ロワイヤルを史上最悪の悪名高き宮殿にした。わいせつギャラリー、ポルノ図書館が造られ、みだらな行為、恥ずべきショーといった性的堕落の最たるものを用意し、あらゆる享楽用のものがそこに現出した。
 このパリ中心部にあるパレ・ロワイヤルを拠点として、フランス人の宗教心、公徳心を組織的に破壊するための運動の詳細が決められ、実行に移された。「最高の革命家は道徳心なき若者である」と言う彼らの理論に基づいている。
 ド・ラクロの仲間の一人がパレルモ出身のユダヤ人、アレッサンドロ・デ・カリオストロ(本名ジュゼッペ・バルサモ)だった。多くの名を騙りヨーロッパ中をうろついて、ロシア宮廷でスキャンダルを起こしてパリにやって来た。ここで彼はラクロに取り入って、オルレアン公の財産管理人となった。希代の詐欺師である。

 バルサモはオルレアン公所有の不動産パル・ロワイヤルを印刷所にし、そこで革命についてのパンフレットを印刷した。革命用の宣伝屋も組織し、エロ本出版、音楽会、怪しげな芝居などやりながら、あちこちで討論会を主催し、革命運動を影で煽る。こうしてオルレアン公の不動産はギャンブル場、売春宿、酒場、ドラッグショップに変わり、革命運動の拠点となって行った。そして1785年、バルサモはあの「ダイヤの首飾り事件」を起こしたのである。
 その後1789年、バルサモは教皇庁のローマに行き、エジプト・メイソンリのロッジを開いて逮捕された。宗教裁判に掛けられ、1791年終身刑を言い渡され、1795年に獄死する。

 一方、金貸し革命勢力は、オルレアン公を利用し、彼の縁者でもある国王ルイ16世とその王妃マリー・アントワネットをしきりに中傷し、王と王妃の評判を落として行く。そして彼らは遂にオルレアン公に、彼の政敵でもあった国王の「処刑への賛成票」を投じさせることが出来た。

 革命を影で操る「秘密権力」はルイ国王を処刑したら、今度はオルレアン公を抹殺しなければならなくなった。全力を挙げて、オルレアン公に対する悪宣伝を流し、結果としては意外なほどに短期間に、オルレアン公をギロチン送りに出来た。
 彼はルイ16世に代わって王位に即こうとしたとの容疑で、パリの革命裁判所で裁判に掛けられ、財産を没収された上で、1793年11月6日、革命広場の断頭台で処刑された(46歳)。ルイ16世が処刑されてから10ヶ月後のことであった。
 
 ミラボー侯爵、オルレアン公、バルサモとフランス革命を実行する過程で、重要な役割を果たした人物はこうして次々と都合良く抹殺されていった。そして、「フランスのルイ絶対王朝は圧政が酷かったので、民衆が革命を起こして倒された」と世界中の人たちは歴史で教わって終わりとなる。

 「自由」「平等」「博愛」という意味のない言葉を頭にたたき込まれ、フランス革命を言えば、胸をはだけ乳房丸出しにして、3色旗を掲げ死体の山の中を颯爽と闊歩する若き女性のエロチックな姿の、あのドラクロアの絵(民衆を導く自由の女神)を頭に描くのである。
 革命と称して奥の院が行った羞悪な行動も、歴史から消され、フランス革命と言えばこのドラクロアの絵だけが、永遠に消えないで人々の頭に残る。
 

 
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する