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シーボルト台風

 1828年文政11年、長崎のオランダ商館医として来日していたシーボルト(32)が帰国したが、日本を出て間もなく台風(シーボルト台風)で押し戻され、再び日本の浜に流れ着いた。
 ところが、その積載荷物の中に、伊能忠敬の作った日本地図「大日本沿海輿地全図」があったことで問題になり、幕府はその地図の返却を要請したが彼はこれを拒否したため、出国停止処分を受けたのち、国外追放、再入国禁止処分となった。これが「ジーボルト事件」である。

 彼はそもそもドイツ人(バイエルン州生まれ)で、オランダ人でなければ鎖国している日本には滞在できない。ドイツ人である彼は日本には滞在できない、つまり彼は密入国者の身分であった。
 しかも当然のことながら、彼はオランダ語が下手で、日本の蘭学者からは、彼がオランダ人かどうか疑われた。そこで彼は「私はオランダでも山の方の出身だから訛りが酷い」と誤魔化して、山などないオランダの地理に疎い、お人好しの日本人は騙されていた。彼は実際は奥の院が派遣した工作員だったのである。

 一方、シーボルトに地図を与えた書物奉行兼天文方筆頭の高橋景保は伝馬町牢屋敷に投獄され、翌文政12年に獄死する。

 時代は下って、1853年ペリーが日本にやって来たが、その時にはシーボルトが持ち出そうとした地図を彼は持っていた。シーボルト台風でその地図が発見され、没収されたにも拘わらず、ペリーがこれを持っていたと言うことは、複製を速やかに作成していたのであろう。 
 シーボルトはペリーが日本遠征を準備している段階で、その遠征艦隊への参加を申し出ていたが、シーボルト事件で日本を追放されていることを理由に、彼の参加は拒否されている。

 シーボルトは再入国禁止処分を受けていたので、再び日本に来ることは出来なかったのであるが、1858年にペリーの砲艦外交に敗れた幕府の井伊直弼らが締結した日蘭修好通商条約で、シーボルトに対する追放令も解除され、翌1859年(安政6年)にオランダ貿易会社の顧問として再来日する。

 その後、シーボルトのオランダ貿易会社との契約が切れたが、息子のアレキサンダーがプロイセン遠征隊に加わって、長崎に寄港した時、彼は日本地図を息子に渡し、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後もプロイセン使節やプロイセンの司令官、全権公使らと会見させ、特にその後、リハチョフ司令官とは密に連絡を取り合わせ、さらにフランス公使やオランダ植民地大臣らの要請に応じて、頻繁に日本についての情報提供を行っていた。こうして、シーボルト親子の奥の院のためのスパイ活動は続くのであった。
 奥の院の日本に対する工作、攻撃はこの時代既に始まっていたのである。気の付かないのは日本側だけであった。
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