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1571年10月

 スペインがレパントの海戦でオスマン帝国艦隊を破った。アジアではこの年、スペインはルソン島(現フィリピン)にマニラを建設する。そして2年後の1573年にはルソン島全島を占領した。

 スペインがルソン島を占領する前の1591年、秀吉は長崎の貿易商人原田孫七郎を使者として「日本国への朝貢を要求する書簡」を6代フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスに送った。絶妙なタイミングで、秀吉は奥の院に挑戦状を送ったのである。

 翌1592年7月、ゴメス総督はマニラの支那人街で布教活動をしていたドミニコ会修道士のファン・コボを派遣し、賜物を添えて返信書簡を送ってきた。ルソンの日本人をマニラに集団居住させ、日本人租界が造られた。秀吉による朱印船貿易が行われるようになる。日本とルソンとの間には、スペインがルソンを植民地化する前から関係があったのである。

 その後、秀吉は1592年と1595年に朝鮮に出兵し、大陸の明征伐を試みるが、志半ばで1598年死去した。秀吉の後を継いだ家康は外国との交渉を絶って鎖国政策を採り、日本は内に閉じこもってしまった。奥の院との関係を絶ってしまったのである。
 奥の院の植民地化からは逃れられたのであるが、250年後の幕末に再度、この植民地化が行われるようになる。その意味では家康は奥の院との衝突を先延ばしにしたに過ぎないとも言える。

 秀吉があと10年長生きしていれば、ルソンを中心とし、明も征服して、アジアに巨大な大日本帝国が誕生していたかも知れない。当時鉄砲の数は日本が世界一であったことを思うと、あながち夢ではなかった。日本は奥の院と違って、虐殺も搾取もしない、天皇の治められる国なので、現地の政府からも受け入れられた可能性は高い。

 先の大戦・大東亜戦争で大東亜共栄圏を造ろうとしたが、この時は既に奥の院の力が大き過ぎて叶わなかったが、この当時であれば、地の利もあり、可能であったかも知れない。間もなくやってくる令和二年の正月の夢である。

 戦後75年、そろそろ東京裁判史観から抜け出して、独立を果たし、世界に貢献する国作りが出来ればと思う。覇道による支配ではない、王道による支配である。
 奥の院に支配される覇道支配の世界は惨めで、そのうち世界全体が、文化の欠片もない中共や北朝鮮のようになってしまう。世界の暗黒時代がやってくる。中世欧州の暗黒時代は奥の院にとっての暗黒時代で、民にとっては文化の花が開いたよき時代だったのである。
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