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王党派と議会派

昨日に続いて

1642年10月、エッジヒルの戦いでイングランド内戦を引き起こし、王党派と議会派を戦わせることに成功し、この戦いは両軍引き分けた。
1643年6月、アドウォルトン・ムーアの戦いで国王軍が勝利する。
1644年7月2日、マートン・ムーアの戦いは議会派が勝利する。
 9月2日、ロストウィシェルの戦い、国王軍が勝利する。
1645年6月、ネイズビーの戦いで議会軍が勝利し、国王チャールズ1世は議会の監視下に置かれ、ハンプトン・コート宮殿(ロンドン南西部)に軟禁される。
 戦争は資金のある方が勝つのである。

1646年、チャールズ1世の息子(チャールズ2世、16歳)と母たちはフランスに亡命した。

1647年6月、クロムウェルはエベネゼル・プラット宛てに
 「経済支援の見返りに、ユダヤ人の英国への入国を提唱しよう。しかしながらこれは国王チャールズ1世が生きている限り実行され得ない。そして裁判に掛けない限り、チャールズ1世の処刑は不可能で、現在のところ裁判に掛ける適切な根拠も存在しない。それ故、暗殺があり得ると言うことをチャールズに進言するが良かろう。とは言え、当方には暗殺者の手配に関わるつもりは一切ない。チャールズの逃亡を手伝うだけだ」と送る。

 7月12日、プラットからの返信は
「チャールズが除去され、ユダヤ人の入国が認められ次第、経済支援を行う。暗殺は危険すぎる。チャールズに逃亡の機会を与えるだけで良い。その後、身柄を拘束すれば、裁判に掛けることも処刑も可能となる。支援は惜しまないが、裁判が始まらないうちから金額について議論しても意味はない」とあった。

 11月12日、チャールズ1世が逃亡する。思惑通りに逃亡させたのである。そして再監禁された。
 12月5日、議会が定めた条件で国王との和解が成立した。クロムウェルはこれに激怒し、和解を支持した議員を全て免職処分にした。
1648年、チャールズ1世はワイト島(イングランド南東部の島)へ脱走した。
1649年1月、クロムウェルの英国における諜報員マナセ・ベン・イスラエルの代理人であるアイザック・ドルスラウスがチャールズ1世の起訴状を作成した。
 1月30日、チャールズ1世はホワイトホールで公開処刑された(斬首刑)。

 ユダヤ金融資本家がクロムウェルをうまく使ってチャールズ1世を公開処刑に持って行って、これを実行し、彼ら(ユダヤ金融資本家)が英国を支配する体制を整えた。

 そしてこの国王を公開処刑した恥ずべき行為を、「清教徒革命」「ピューリタン革命」と美しい名前をつけて歴史に残した。売国奴であるクロムウェルも「ピューリタン革命」を成し遂げた英雄として歴史上持ち上げている。
 歴史は彼らが書く。




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