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クロムウェルの独裁

1649年1月30日、クロムウェルを使って奥の院は首尾良く国王チャールズ一世を公開処刑し、イングランド王国を潰した。
2月5日、この処刑に反対していたスコットランドは、チャールズをスコットランドの王として推戴すると宣言した。
1650年5月、チャールズ一世の皇太子チャールズ(後のチャールズ二世)がスコットランドに上陸する。
 7月、クロムウェルは総司令官としてスコットランドに遠征する。
 9月3日、クロムウェルが王党軍を破る。
1651年1月、チャールズ二世がスコットランド王に即位する。
 9月3日、チャールズ二世がフランスに脱出する。
1653年12月16日、チャールズ一世処刑後、不在となっていたイングランドの国家元首の地位を「護国卿」と定め、クロムウェルが就任した。そして彼の独裁政治が始まる。大量虐殺が起きる。
1657年、クロムウェルがユダヤ人の追放解除を行った。1290年7月18日のエドワード一世による追放布告以来350年ぶりにユダヤ人が正式に帰還した。

1658年9月3日、クロムウェルが死去した。息子のリチャードが跡を継いで護国卿になったが、翌年には辞職している。クロムウェルは奥の院の使いとして護国卿になったのであって、その子供までは認められなかったのである。クロムウェルは、自覚があたったかどうかは別として、自分の力で清教徒革命を成し遂げたわけではなかったのである。
1661年、クロムウェル死後、彼の策謀が明るみに出る。
 4月23日、チャールズ二世がイングランド王に即位する。改めてウェストミンスター寺院で戴冠式が催行された。これに先立って、ウェストミンスター寺院に埋葬されていたクロムウェルの遺体は掘り返されて、「王殺しの罪」で絞首刑に処され、首は晒しものにされた。

奥の院としては、クロムウェルがどうなろうと関係ないのである。イギリスを潰すという目的さえ果たされれば良いのである。

1677年、イギリスは敵対していたオランダとと和解し、オラニエ公ウィリアムがジェームズ二世の長女メアリーと結婚する。勿論これも先を見越しての奥の院の策謀である。
後にこのオラニエ公ウィリアムとメアリーをイングランド王にするのである(名誉革命)。
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