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イングランド銀行設立

1677年、英国は英蘭戦争を戦って敵対していたオランダと和解し、オラニエ公ウィリアムがヨーク公爵(ジェームズ二世)の長女メアリーと結婚した。全て奥の院の段取りによる政略結婚である。
1681年1月、チャールズ二世は再び議会を解散する。
1683年4月、チャールズ二世暗殺未遂事件(ライハウス事件)が発生する。

1685年2月6日、チャールズ2世が死去する。
 4月23日、チャールズ2世の弟ジェームズ2世が即位する。
 11月5日、ウィリアム3世が5万の軍勢を従えてオランダからトーベイに上陸する。迎え討つべきジェームズ2世の側近でイングランド貴族のジョン・チャーチル(後のマールバラ公)とサラ・ジェニングス夫妻らイングランド貴族は、脱走してオランダ軍に投降し、ウィレム三世に寝返る。
 『ユダヤ百科事典』によると「多くの功績故にマールバラ公爵には少なくとも年間6000ポンドがオランダに住む銀行家から与えられた」と記録している。マールバラ公は買収されていたのである。要するに、王を護るべきマールバラ公は、奥の院に買収されいたのである。

 ジェームズ二世は仕方なくフランスに逃亡する。こうしてステュアート朝のイングランド王ジェームズ二世(スコットランド王としてはジェームズ七世)は追放された。
 そしてジェームズ二世の娘メアリー二世とその夫でオランダ総督ウィリアム三世がイングランド王に即位した。奥の院がオランダから王を連れてきたのである。王朝はスチュアート朝からドイツのハノーバー朝に変わった。

 正統な王はメアリーではなくジェームズ2世であるとして、ウィレム3世とメアリーに抵抗するジャコバイト(ジェームズのラテン名)運動が開始され、これがこれからおよそ半世紀続くことになる。

1689年2月13日、オラニエ公ウィリアムと王妃メアリーが、英国王並びに王妃を宣言する。ウィリアム三世はイングランド国王に即位し、女王となった妻メアリー二世と共にイングランドの共同統治者となる。ただし即位時に議会が提出した権利章典によって君主の権力は議会に制限される。

 英大蔵省は銀行家から下記の条件で125万ポンドを借り入れる。
一、貸付を行った人物群の名は伏せられること,そして彼らに英国銀行設立の特許状が与えられること。(奥の院は姿を隠す)
二、英国銀行理事に金本位制を確立する法的権限が与えられること
三、金庫室に保管されている金1ポンド等価で10ポンド相当まで貸付可能(通貨発行)とすること。(この瞬間奥の院の資産は10倍、貸した金はこの瞬間回収)
四、国家負債の清算及び国民からの直接税によって,元金と利息として、しかるべき金額の支払い(準備金)の確保が認められること。(税金によって奥の院は利息の財源を確保)

ここにイングランド銀行という名前がつけられた、国立のような民間銀行が誕生した。全く費用を掛けずに、イギリス政府の銀行のような振りの出来る、民間銀行が誕生したのである。この所有者は奥の院である。
「通貨発行権さえくれれば、政府はどんな政策を採ろうと一行構わない」と大王様は言った。

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