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第一合衆国銀行

1789年(光格天皇の御世)大統領に就任したジョージ・ワシントンは、1791年2月25日、米国第一銀行設立法案に署名し、米国初の国立銀行のような振りをした民間銀行が設立された。公認期限を20年と定め、財務長官は初代アレクサンダー・ハミルトンであった。ロンドンに行かされた大王さまマイヤーの3男ネイサン・ロスチャイルド(奥の院)らが株の80%を所有した。通貨発行権限は連邦議会に属するという憲法には明らかに違反している。トーマス・ジェファーソン(第三代大統領)や建国の父ベンジャミン・フランクリンらは大反対した。
 
 株の80%はネイサンらが所有し、政府の所有は20%であった。1913年に出来て現在も世界の基軸通貨ドルの発行権を独占している、期限なしのFRBよりはましであった。
 1791年2月25日にアメリカ合衆国議会によって公認された第一合衆国銀行は、公認期間は20年間で、新たに独立したアメリカ合衆国の中央政府の財政的需要と要求を取り扱うために創設された。それまでは13植民地がそれぞれに銀行を持ち、それぞれの州が通貨および財政制度と政策を持っていた。
  
この銀行の公認は1811年、ジェームズ・マディソン大統領のときに失効した。しかし、失効して5年後、1816年にマディソン大統領は第二合衆国銀行という形でそれを復活させた。
 第一合衆国銀行の存在した18世紀の最後の10年間、アメリカ合衆国には3つの銀行があり、50以上の異なる通貨が流通していた。イギリス、スペイン、フランス、ポルトガルの貨幣や紙幣も持ち込まれていた。これら通貨の価値は極めて不安定であり、政治に無関心な通貨投機家が儲ける天国となっていた。投機家たちがおよそ15セントで購入した債券に対し、ハミルトンの財務省は額面価値1ドルを支払った。
 
 フランス財務大臣ジャック・ネッケルやイギリスの大蔵大臣ロバート・ウォルポールの申し子であるハミルトンは、親方の指示通りに一部地域や州のためではなく、国全体のための銀行を考案した。
アメリカ合衆国議会第一会期の最初の総会に提案した計画によれば、アメリカ合衆国銀行の当初資金として1000万ドルの株式を販売し、そのうちアメリカ合衆国政府が最初の200万ドル分の株式を購入して設立することを提案した。ハミルトンは、アメリカ合衆国政府が200万ドルを持っていないためにこれが実行不可能というが分かっており、政府は銀行から借り入れた金で株式購入することを提案した。そしてこの借入金は10年間に均等割賦で返済されることとした。ここに民間(奥の院)が政府に金を貸し、政府から利子を取るという仕組みが出来上がったのである。この仕組みが現在も続いている。
 
 株式の残り800万ドルは合衆国内および海外の大衆が購入できるものとした。そしてこの非政府の購入についての要求事項は、価格の4分の1は金あるいは銀で支払う、残りは債券や受容できる紙幣などで支払いを可能とした。金や銀を持たない一般の民間人には購入不可能で、購入者は所詮民間という名の奥の院であった。
 
  アメリカ合衆国銀行の設立にはその他に譲れない条件が付された。それは以下の通りであった。
 銀行は私的企業(つまり奥の院企業)であること
 銀行は1791年から1811年まで20年間運営する公認企業であり、それが切れたときはその認可を更新するかどうかは連邦議会に委ねられること。
 
 他の一般の銀行には次のような制限がつけられた。
1、国債を購入することの禁止(奥の院銀行が独占)
2、取締役の定期的交代の義務化
3、その資本金を超える紙幣の発行と負債を負うことの禁止
4、外国人は海外にいても合衆国内にいても、アメリカ合衆国銀行の株式保有を認められるが、選挙権は認められないこと(通貨発行権さえくれれば政策については何も言わない)
 
  ワシントンは躊躇したが、1791年4月25日、この「銀行法」案に署名し、法が成立した。
第一アメリカ合衆国銀行その後の経過
 1795年にハミルトンが財務長官を辞めた後、新任のオリバー・ウォルコット・ジュニアが議会に対して、政府の財政状態のために更に多くの金が必要と報告した。これへの対応として、銀行株の政府持ち分を売却するか、税を上げるかどちらかだった。ウォルコットは株式の売却を推奨し、議会は直ぐにこれに同意した。ハミルトンは負債の償還のために減少する資金を支えるには、その株式の持ち分は「神聖犯すべからざる担保」だと信じていたので売却には反対した。
 銀行の公認は1811年に失効した。その後第二アメリカ合衆国銀行が継承した。
 
この後のアメリカ合衆国の歴史は、奥の院がアメリカの通貨発行権を奪取していく歴史である。そのために戦争があり、大不況が作り出され、大統領の暗殺ありの歴史であった。
 
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