Entries

ウィーン体制時

1815年6月、奥の院はワーテルローの戦いでナポレオンを始末した上で、改めて欧州の支配者をウィーンに集め、ウィーン議定書を作成してウィーン体制を整えた。
 
 ウィーン体制が発足し、欧州全土でユダヤ人は「平等の権利」が保証され、ユダヤ人がゲットーから飛び出し、異常発生した蝗のように欧州を席巻し、各国政府の役職に就き、教育界に地位を得、銀行の役員になり、奥の院(ユダヤ人)が非ユダヤ人国家(欧州諸国)の完全支配者となった。
 
1816年、北米大陸では奥の院が起こしたインフレに対処するため、ジェームズ・マディソン大統領が米国第二銀行設立法案に署名し、第二合衆国銀行が創設された。1813年から1814年まで、第4代アメリカ合衆国海軍長官を務めたウィリアム・ジョーンズをその頭取に指名した。1811年に第一合衆国銀行が公認期限が到来し、更新が拒絶されたので消滅していたが、この時また第2合衆国銀行が誕生したのである。
 3月4日、ジェームズ・モンローが第5代米国大統領に就任する。
  8日、ニューヨーク証券取引所(ウォール街)が発足する。
 
 この頃、奥の院のイングランド銀行は金本位制を採用した。
1820年1月29日、英国でジョージ3世(ハノーバー朝3代ジョージ3世の子)が即位した。
アメリカでは12月3日、ジェームズ・モンローが再選された。
 
1822年、ハプスブルク家が奥の院ロスチャイルド兄弟5人全員に男爵位を授与した。大王家2代がそろって爵位を取得した。しかしこの時、ロンドンロスチャイルドのネイサンはこれを辞退している。ハプスブルグ家よりも自分の方が上だという意識があったのであろう。あるいは非ユダヤ人(ゴイム)からの爵位など意味が無いという意識かも知れない。
 8月12日、ウィーン会議を主導したカッスレー卿が、自責の念からか、ジョージ4世に謁見し「陛下、ヨーロッパに別れを告げなければなりません」と打ち明ける。そして自邸に戻りペンナイフで頸動脈を切って自決した。ウィーン会議のもたらした現実、ウィーン会議を機にユダヤ人の奥の院がヨーロッパを完全支配し始めたという現実を検証してのことである。
 そもそも、チャールズ1世を公開処刑(清教徒革命)し、オランダからウィレム3世を連れてきて(名誉革命)イギリス王とし、ハノーバー王朝を建てたのであるから、そのハノーバー王朝のジョージ4世にこんなこと言っても、何の意味も無いと思われるが、カッスレー卿の気持ちも分からないでもない。全ては奥の院のしてきたことで、既にこの時のイギリスは奥の院の支配下にあったということがカッスレー卿には分かっていたのかどうか。
 
1823年3月、フランスが総額1億2千万フランの公債を発行するにあたり、ジャコブ・マイエール・ド・ロスチャイルド(パリ・ロスチャイルド家の祖)がシ団を組織した。フランスもここで奥の院から借金したと言うことである。国家財政を奥の院に依存する構造になった。奥の院がフランスから利息を取る、つまりフランス国民から利息を取るという構造である。イギリスに次いでフランスもここで奥の院の傘下になった。尤もその前に、既にワーテルローの戦いに敗れた後、1817年にロスチャイルドから借金(公債引き受け)をして奥の院の軍門に降っているのである。
 
 この年8月、奥の院はシーボルトを日本(オランダ商館)に派遣している。彼はドイツ人であるがオランダ人と偽って日本に入って来た。日本の蘭学者からは、彼の言葉が変だからと疑われた。しかしこの時は彼は「オランダでも山の方の育ちだから田舎育ちで」と言い訳し、日本の蘭学者達が騙されて事なきを得た。オランダには山など無いと言うことを知らないで騙されたのである。そして、彼は後に、伊能忠敬が作成した持ち出し禁止の大日本沿海輿地全図を持ち出そうとして、シーボルト事件を引き起こした。彼は奥の院の送り込んだ工作員だったと言うことがはっきりしているにも拘わらず、日本では今もそうは思われていない。
 
 奥の院はこの時点で既に日本攻略の準備を始めていたのである。決してペリーがやって来たときではない。30年前にオランダ商館にドイツ人シーボルトを潜り込ませ、持ち出し禁止の地図を持ち出させて、これを大事に保管し、30年後にペリーにこれを持たせて日本に派遣した。つまり日本にやって来たペリーは、この時シーボルトが持ち出した大日本沿海輿地全図を持っていたのである。奥の院にとっては国は関係ないと言うことがよく分かる。
 
1826年、ウイリアム・モーガン暗殺事件が起きる。ニューヨーク州バタビアにウィリアム・モーガンの記念碑がある。碑文には、「我々の市民的諸制度はフリーメーソン(後に奥の院が乗っ取る)によって破滅を見るだろう。彼らはすでに力をたくわえ、日ごとに巨大になっている。私は国家に対して、その危機を暴く義務がある。W・モーガン大尉」とある。
 またその碑の裏面には「ウイリアム・モーガンを偲んでここに奉じる。彼はヴァージニアに生まれ、1812年の戦争(米英戦争)において大尉となった。バタビアの敬愛すべき市民であり、真実を書き、それを公刊し、真実を語り続けた自由の殉教者であった。彼は1826年にフリーメーソンによりこの地近郊で拉致され、彼らの組織の秘密を暴いたため殺害された」とある。この記念碑は一般の寄付によって建てられた。
 モーガン暗殺をきっかけとして、反フリーメーソン派の国民的な運動が高まり、北東部一帯のフリーメーソン・ロッジは閉鎖された。1828年、反フリーメーソン派のニューヨーク州知事候補は、ほぼ半数の票を獲得し圧勝した。この時、合衆国北部管轄のフリーメーソンの40%が脱退している。フリーメーソンと奥の院の関係はまた別の機会に書く。
 
スポンサーサイト