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フュートン号事件

1808年(文化5年)10月4日、オランダ船拿捕を目的としてイギリス海軍のフリゲート艦フェートン号が、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港してきた

これをオランダ船と認識した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所のオランダ通詞らとともに、出迎えのため艦に乗り込もうとしたところ、イギリスの武装ボートによって商館員2名は拉致され、艦に連行された。それと同時に艦はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。

長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、艦側はこれを無視して、水と食料を要求する返書を突きつけてきた。
 
長崎奉行の松平康英は、湾内警備を担当する鍋島藩と福岡藩の両藩に、イギリス側の襲撃に備えるよう、そしてまたフェートン号の抑留、又は焼き討ちをするよう命じた。ところが長崎警備当番の鍋島藩が太平に慣れて経費削減のため、守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどの僅か100名程度しか詰めていないことが判明する。そこで松平康英奉行は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩などの諸藩に応援出兵を求めた。
 

翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水、食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと恐喝してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英奉行はやむなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。


長崎奉行所では食料や飲料水を舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。

17日、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英奉行は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちの作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去ってしまった。 


結果だけを見れば日本側に人的・物的被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして切腹し、勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老ら数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島齋直に100日の閉門を命じた。 


この事件ののち、長崎奉行らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入港手続きを強化したが、その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発することになった。

この屈辱を味わった鍋島藩は次代藩主鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至った。 

この頃は奥の院がオランダからウィレム三世を連れてきてイギリス国王にし、その後はオランダと覇を争っていた。そして、奥の院はフランス革命を起こしてフランスを潰し、その後出てきたフランスの愛国者ナポレオンと対峙していたのである。

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