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アジア

 1848年の同時革命時には、奥の院は支那大陸の清国と日本以外のアジア地域を、既に植民地支配をしていた。そして支配者はスペインとポルトガルから奥の院に移っていた。
 1848年欧州で同時革命(1月21日通信)を起こし、欧州全域の君主国を潰して、欧州では彼らが支配できる体制がほぼ出来上がった。勿論、これから欧州でも、支配を完成させるために数々の戦争を起こしていくのである。各国の政治体制を壊して、彼らが新たな体制を整え、首脳陣の人事権を握っていく。

 一方、アジアでは、欧州での1848年の同時革命の前、奥の院は1840年アヘン戦争を起こして清国を屈服させ、清国にとっては不利な不平等条約・南京条約を締結させる。この条約で上海ほか広州・福州・厦門・寧波の5港を開港させ、香港島を割譲させた。

 イギリスを中心とした奥の院と清国との貿易は、これまでは奥の院の万年赤字だったが、彼ら奥の院が印度で阿片を作らせて、これを清国に輸出し始めてから、貿易収支が逆転した。
 知っての通り、阿片は強い常習性があり、一旦吸引を始めると中毒となり、阿片の清国への輸出は急増し、しかも吸引者の健康被害も甚大だった。
 そこで、当然のことながら、清国は阿片の輸入を禁止し、奥の院との戦争になったのである。見かけ上はイギリス(国家)と清国との戦争に見えるが、これは奥の院(民間・私兵)と清国との戦争であった。

 香港島の割譲を受けた奥の院は、ここを拠点にアジア支配を強化していく。南京条約で開港させた上海と割譲させた香港島がアジア支配の拠点になったのである。
 日本にやって来たペリー艦隊も上海から来ている。二度やって来たが、彼らは上海と日本の間を往復しただけである。そして、金(小判)と銀の交換価値の差を利用して、日本に銀を持ち込んでは、日本から金をせっせと持ち出した。日本と上海の間を往復してのことであった。

 日本では戦争が終わって3年後の1843年には昌平坂学問所の斎藤竹堂が「鴉片始末」を書いて、日本国民に知らせている。大国・清国がイギリスに敗れたと言うことは、当時の日本人にとっては驚愕の事件であった。これが後の攘夷運動に繋がっていくことになる。

 アジア支配を強化していくために、資金需要が大きくなり、奥の院は1844年にピール銀行条例を制定させた。イングランド銀行(奥の院所有)に銀行券発券を独占させ、欧州支配とアジア侵略のための資金を賄った。ピール銀行条例は奥の院の銀行・イングランド銀行を、民間銀行でありながら、イギリスの中央銀行にした。
 この手法が後のFRBとなっていくことになる。


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