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オーガスト・ベルモント

 1844年、ピール銀行条例で奥の院は打ちでの小槌を手にした。

 1694年に奥の院が設立したイングランド銀行が、この条例で銀行券の発券を独占し、実質的にイギリスの中央銀行となった。ロバート・ピール内閣が銀行勅許法、ピール銀行法を制定し、この法律によりイングランド銀行が、奥の院の民間銀行でありながら、中央銀行として銀行券の発券を独占した。
 この条例は新たな他の銀行券が市場へ供給される量を制限する役目を果たし、イングランド銀行を唯一の発券銀行として排他的役割に位置づけた。イングランド銀行以外の銀行は、発券済み銀行券を回収しなければならない。
 その上「イングランド銀行による発券数の週次決算報告」の廃止が決定され、イングランド銀行だけが自由に、どこにも報告することなく、銀行券を発行できるようになった。奥の院は無限の打ち出の小槌を手にしたのであった。これで世界支配の体制を整えていく。

 ピール銀行条例で無限の通貨発行権を手にした奥の院が、欧州全体で同時革命を起こした1848年の翌年、1849年11月、奥の院が代理人としてアメリカに派遣したオーガスト・ベルモントが、ペリー提督の娘・キャロライン・ペリーと結婚した。
  ベルモントは大王様マイヤーの4男・カール・マイヤー・ロスチャイルドの非嫡出子で、カールは1821年にナポリに派遣され、イタリア・ロスチャイルド商会を設立した。

 ベルモントはカールの子であるから、大王様マイヤーの孫に当たる。1837年、フランクフルトのロスチャイルド商会の代理人としてアメリカに派遣された。そして、ペリー家やモルガン家と結びついてボストン財閥を形成していく。
 ベルモントの息子ベルモント2世がエリザベス・ハミルトン・モルガンと結婚し、モルガン・ベルモントを儲けて、モルガン財閥と結びついていくのである。

 1853年、ペリーは日本にやって来て、砲艦外交で日本の門戸をこじ開けた。この経緯で、ペリーを日本に派遣したのは奥の院であったことが分かる。歴史はミラード・フィルモア大統領が国書を持たせて派遣したことになっているが、事実は娘婿であるベルモントを通じて、奥の院ロスチャイルドが派遣したのであった。
 1840年アヘン戦争で清国を倒して支那大陸を植民地化したのに続いて、今度は日本を取りに来たのである。

 1856年にはベルモントはアメリカ民主党党首となり、以後20年間アメリカの政治に関わった。このようにして奥の院はアメリカの政治にも関わっていくことになる。
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