Entries

ペリー来航

 1853年6月、マシュー・ペリーが日本に来航した。日本はとりあえず引き下がってもらい、翌年1月に再来航来航した。このペリーは奥の院がアメリカに派遣したオーガスト・ベルモントの義父である。つまりペリーは奥の院が派遣したのである。

 ペリーが来航した1853年、奥の院はアメリカに今のニューメキシコ州に当たる地域を、スペインから購入させている。奥の院はアメリカ経営に本格的に乗り出した。
 1836年に第二合衆国銀行の認可が失効し、奥の院としてはアメリカに何とか再度銀行を作りたいと画策している期間である。つまり、アメリカで通貨発行できないので、イギリスのイングランド銀行を使っての活動をしている期間である。

 その2年後の1856年にはオーガストベルモントはアメリカ議会民主党の党首となり、アメリカ政界のドンの一人となった。
 翌1857年、奥の院のロンドン・ロスチャイルド家当主ライオネルの娘レオノラとパリ・ロスチャイルド家当主ジェームスの長男アルフォンソとが結婚(政略的近親結婚)し、ロンドン奥の院とパリ奥の院との絆が強化された。

 ロンドン奥の院のライオネルは南部を支援し、パリ奥の院は北部を支援した。勿論敵対しての支援ではなく、策謀である。そして、ロンドン奥の院はアメリカ関連の債券を投げ売りし暴落させて、その債券を底値で代理人ピーボディーにそっくり買わせた。これは北部に資金提供したが、金利を12%要求され借り入れを断ったからなのである。

 1858年、日米修好通商条約が締結され、日本とアメリカとが正式に外交関係を結んだ。日本国内では、この条約締結は勅許を得ていないから無効であると主張する攘夷派と幕府が鋭く対立し、大騒動になるが、国際的にはこの条約締結で全て終わっているのである。結局その後の10年間、日本国内では大騒動が続いたが、結局、日本は正式に開国に踏み切ることになった。魑魅魍魎の世界におびき出されたのである。
 この年9月、奥の院は自分の会社である東インド会社をヴィクトリア女王の直轄統治とした。形をイギリス政府のものとすることによって、儲けは自分、リスクと現地起きる非難はイギリス政府に被せたのである。

 1859年、日本は日米修好通商条約に基づいて横浜を開港し、奥の院はすぐに横浜にジャーディン・マセソン横浜支店を開設した。奥の院の外国支配はまず銀行開設から始まるが、ここではジャーディン・マセソン横浜支店(銀行)開設から始まった。

 アメリカでは、2年後1861年に大統領に就任したリンカーン大統領が政府紙幣を発行して戦費に充てた。奥の院はこんな手があったのかと吃驚し且つ狼狽えた。南北戦争が終わってすぐに彼は暗殺されることになった。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する